エッセイ

2020年10月07日

「苦労人」というけれど (新聞赤旗西日本版 水曜随想 10月7日)

どこぞの総理大臣が「たたき上げの苦労人」なんだそうで、ちょっと私も幼少時代を振りかえってみたくなりました。

1978年に広島市で生まれ、両親と3つ上の兄の4人家族の我が家は、転々と引越と転職を繰り返し、小学校に上がる頃には母がお好み焼き屋を営み生計を立てるということで落ち着きました。

両親の離婚もあり借金もありで我が家はとにかく貧乏でした。お店が夜8時までやっていましたから、夜ごはんはほぼ毎日お好み焼き。夕方になればほぼ毎日キャベツやそばを買いに近所のスーパーへ走らされました。もともと風呂のない借家で、前に住んでいた人が自分で作った風呂をそのまま引き継いで使っていたのですが、ずいぶん古くなっていたある日、ガス漏れで爆発が起き母が大やけど。小中学生の息子2人を残して2カ月入院するという事故もありました。テレビゲームの「ファミコン」がちょうど出始めた頃でしたが、当然我が家は買ってもらえるはずもなく、ある日友だちの家に遊びに行ったときに「今日はファミコンができる!」と興奮をして玄関先で鼻血を出した珍事件もありました。

母は「2人の息子を大学まで行かせてやりたい」と必死にお好み焼きを焼き、ある頃からパートにも働きに出、ダブルワークで生活費を捻出しました。兄も私もアルバイトをし、授業料免除制度や一人親世帯向けの無利子の貸付制度などを活用しながら、なんとか大学を卒業しました。年に何度かの父がパチンコで勝った日に行く焼肉屋と年に何度かのカープ観戦が一番の楽しみ、という貧乏でしたが両親の愛情に包まれなぜか楽観的で笑いの絶えない家庭でもありました。

そして18歳の春、日本共産党員である母や地域の仲間の皆さんの「世のため人のため」「戦争も貧困もない社会を」とがんばる姿に、自分の生き方を重ね入党を決意。誰もが安心して暮らせる「公助」の役割をしっかりと果たす政治の実現へ――初心を思い起こし、庶民の苦労などちっともわかっていない菅政権に必ず勝利します。